EPIC WAR

HISTORY V

Knight of War

黒時代という、全てが混沌とした時代があった。
およそ1500年前、古代はもはや過去のものとなり、高貴なる中世の時代が花開こうとしていた。長きに渡り繁栄した西ローマ帝国は、遂に滅亡したのであった。これで新たな時代が幕開けるのは確実だと思われた。しかし実際に始まった時代は、幾多もの戦争、広がる疫病が支配する狂喜の時代であり、人々は終ぞ苦しみ、いつしかその時代は暗黒時代と呼ばれるようになった。中世初期の5世紀ごろ、北からの野蛮人は欧州各地に侵入を開始。この進行がいわゆるヴァイキングの起源かもしれないが、歴史上で始めてヴァイキングの襲撃が記されるのを認知するのには、793年のリンディスファーンの襲撃まで待たねばならない。この北からの進行により一層戦いは激しさを増し、混沌とした時代が約500年に渡り続いた。

してこの暗黒の時代から、古く語り継がれる中世の騎士らが戦場に登場したのである。
騎士文化については、中世最大の騎士道物語である「アーサー王物語」に詳しい。この物語は実在の5、6世紀の伝説的英国王に乗っ取って書かれた、1500年前のものである。騎士という語源は私の記憶が正しければアングロ・サクソン語のKnight"従僕"からきている。また騎士を最もよく表すのがドイツ語のreiten、rittでどちらとも"馬に乗るもの"の意味を持つ。騎士の時代の始まりから、騎士と馬の関係は切り離せなかった。結果的に騎士とは「馬に乗る戦士」として定着した。戦場で馬を駆り甲冑に身を包む彼らは慈悲深い、英雄らしい精神を持ち合わせていた。そのため誠実な徳高き騎士は暗黒の時代にあって徐々に民衆達の憧れとなっていった。民衆から始まった騎士に対する称賛は瞬く間に広がり、騎士は中世を代表する存在となった。高潔な騎士達は数々の武勇や冒険を成し遂げ、それらは吟遊詩人に詩として歌い継がれるまでになった。これらの叙事詩を後世に語り継ぐべく詩人達はは、絶えず総力した。戦うことが職業だった騎士にとっては、戦争以外の決闘も、しばし避けられないことであった。光り輝く鋼鉄を振い、王や貴婦人らの称賛を得る輝かしい行為は、とても意味のあることだった。騎士の決闘というものにはルールが定められており、それに従い勝利することが最大の名誉であった。騎士達は相手をただ打ち負かすのではなく、命を賭けて、名誉を示す戦い方をしなければならなかった。不利な状況の相手を倒したとしても、何の名誉にもならなかったからである。そのため、決闘は常に相手と平等の状況(例えば相手が徒歩であれば、こちらは馬を下りて徒歩で戦わねばならない)で行われた。騎士達の戦いでもっとも有名で人気が高かったのは、馬に乗って玉砕しあう「馬上試合」だった。騎士らは互いに馬に跨り、紋章の入った美しい盾を構え、長さ3メートルもの槍を持って突進した。多くの場合は相手の盾を狙うのだが、時には貫通したり脇腹に突き刺さったリしたこともあった。もちろん戦いでは死に至ることもあった。馬上試合では、馬から落ちたものが負けである。また、騎士は馬の上から剣を振るうということはしなかったという記録が残っている。なぜなら貴重な馬を剣(中世では長剣が主だった)で切り付けてしまう恐れがあったからである。このように暗黒時代に花開いた中世騎士の戦いの文化により、騎士は自らの栄誉のため、王のため、貴婦人のために戦い中世の時代の礎を築いていった。その華々しい叙事詩は、今でも私達の錆びれた心に美しいロマンスと勇気を描いてくれるのである。

 

余談であるが、騎士には愛する貴婦人のために戦うということが多くあった。その際は、盾の裏側、兜、槍等に貴婦人の袖や肌着などを付けることがあった。もちろん戦いでその袖や肌着はボロボロになるが、騎士はそれを戦いの後貴婦人の元に返さねくてはならなかった。その行為には、"騎士が愛する貴婦人のために命を賭けて戦った"という意味が含まれていたのである。

 

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