エピックメタルの父

The Father of Epic Metal

著者:Cosman Bradley
翻訳:METAL EPIC

1 歴史

The Father of Epic Metal

 ロバート・アーヴィン・ハワード(Robert Ervin Howard)は、1906年のアメリカ、テキサス州ピースターにて父アイザック・モルデカイとアイルランド人の血を引く母へスター・ジェイン・アーヴィンの間に生まれた。ハワード一家はテキサス州を転々とする生活を送っており、ハワードが8歳の時までに7回の移住を繰り返した。ハワードは母親から民話や詩について学び、幼い頃から読書に熱中した。9歳(10歳)の時に始めて書いた小説が北欧の英雄叙事詩ベオウルフを題材としたものであり、北欧の神話などの英雄譚に大いに魅了されていたようだ。1919年、ハワード一家はテキサスのクロス・プレインズに引っ越してきた。13歳のハワードはクロス・プレインズ・ハイスクールに入学し、当時のテキサス州の石油ブームを直に経験した。この石油ブームが若いハワードの心情に大きな衝撃を与え、一夜にして文明の興亡が起こり得ることを学ばせた。15歳の時、ハワードは地元で出会った冒険小説総合パルプ雑誌『アドヴェンチャー』に魅了され、本誌に投稿する意味も兼ねて、本格的な創作活動を始めた。同誌の人気作家であったハロルド・ラムとタルボット・マンディは、当時のハワードに大きな影響を与えた人物である。16歳の時、ブラウンウッド・ハイスクールに進学したハワードは、幸運にも最初の友人たちと出会い、トルエット・ヴィンスンとクライド・スミスとは、文学について多くのことを語り合う仲となった。また、この時代には、ハワードの作品が始めて学内誌〈タットラー〉に入選して活字となった。1923年、17歳のハワードはブラウンウッド・ハイスクールを無事卒業するも就職後に失業。ハワード・ペイン・ビジネス・スクールにて学業に戻り、下宿生活で新しい友人リンジー・タイスンと出会った。タイスンの影響で、ハワードはひ弱な体を変えるためにボクシング、乗馬、ボディビルに打ち込み、その結果強靭な肉体を得た。しかし、実際のハワードは鍛える以前も大柄で決してひ弱ではなかったという。当時のハワードのあだ名は"二丁拳銃のボブ"である。またこの年は、幻想怪奇パルプ雑誌『ウィアード・テイルズ』が創刊された年でもあった。18歳の時、ハワードは本格的に作家活動に没頭するためにハワード・ペイン・ビジネス・スクールを中退した。しかし、本人の想像以上に投稿が上手くいかず、収入を得るために行った様々なバイト生活の果て、ハワード・ペイン・ビジネス・スクールに再入学する結果となった。この時、ハワードは父親と作家としての"ある約束"を交わしたという。1925年、ハワードが19歳の時に、念願の『ウィアード・テイルズ』誌に短編小説『Spear and Fang』が始めて採用された。1927年にはハワード・ペイン・ビジネス・スクールを無事卒業。ハワードはクロス・プレインズに帰ると、直に新しい小説の執筆に励んだ。この時に誕生した小説が『影の王国(The Shadow Kingdom)』であり、〈キング・カル(King Kull)〉シリーズの第一作目となった。本作は『ウィアード・テイルズ』誌の編集長ライトに絶賛され、およそ100ドルの稿料の値が付いた。その後もハワードの投稿は続行され、1928年には「ソロモン・ケイン(Solomon Kane)」第一作目となる『赤き影(Red Shadows)』が『ウィアード・テイルズ』誌に掲載された。〈アーゴシー〉誌はハワードの作品に消極的な態度を示し、『赤き影』を送り返したが、『ウィアード・テイルズ』誌の反応は好意的なものであった。これを皮切りにして、ハワードは小説の分野で次々に成功を収めていった。〈ブラン・マク・モーン(Bran Mak Morn)〉、〈レッド・ソニア(Red Sonja)〉といった魅力的なキャラクター達を生み出し、1929年には、〈ファイト・ストーリーズ〉で連載していたボクシング小説〈スティーヴ・コスティガン(Sailor Steve Costigan)〉シリーズも人気を博した。1931年、ハワードのもとを悲劇が襲った。大恐慌の波が押し寄せ、銀行の預金をすべて失ったのだ。人気を博していたはずの〈ファイト・ストーリーズ〉も休刊に追い込まれ、唯一残った『ウィアード・テイルズ』誌に投稿を絞る結果となった。1932年、休暇中のハワードにとって最大の転機が訪れた。フレデリクスバーグ近郊の丘陵地帯で着想を得た新しい国家のイメージが、ハワードに強烈な物語のヒントを与えたのだ。直にハワードは"By This Axe I Rule!"という小説を大幅に改変し、驚嘆すべき勢いで『不死鳥の剣(The Phoenix on the Sword)』という小説を書き上げた。これが後の代表作「コナン(Conan the Barbarian)」シリーズの第一作目となり、『ウィアード・テイルズ』誌で最大の人気を博すことになった。その後、ハワードは破竹の勢いで「コナン」の続編を執筆し続け、1933年までの間に8篇の小説を完成させた。このキンメリア出身の野蛮人を主人公とした英雄冒険譚は、「ヒロイック・ファンタジー」という新しいジャンルの確立を決定的なものとした。これらは後にフリッツ・ライバーによって「剣と魔法(Sword and Sorcery)」と呼ばれるサブ・ジャンルの忠実な原型である。なお〈コナン〉シリーズは、完結編全21篇が『ウィアード・テイルズ』誌に発表された。1933年、ハワードは小説の枠を増やすためにエージェント、オーティス・アデルバート・クラインと正式な契約を結んだ。クラインはハワードに様々なジャンルの小説を勧め、ウェスタン小説で新しい可能性が拓けた。1934年の〈アクション・ストーリーズ〉3・4月号に掲載された〈ブレッキンリッジ・エルキンズ(Breckinridge Elkins)〉シリーズは、ハワードの代表的なウェスタン小説となった。ハワードは1936年に30歳でピストル自殺し生涯に幕を閉じる寸前まで、この執筆活動を止めることはなかったという(*注釈1)。発表した作品は数知れず、主に幻想怪奇小説・秘境冒険譚(これらは剣と魔法の融合と呼ばれる)、ボクシング小説、後年はウェスタンやSF、ミステリー小説を執筆した。ハワードは歴史や考古学に対する知識が深く、有史以前の古代や秘境を舞台にしたり、時には自ら架空史を生み出した。1936年、ハワードは看病中の母へスターの病状が著しく悪化していく姿に苦しみ抜いた末、タイプライターにアーネスト・ダウソンの詞を打ち込み(*注釈2)、自宅の車の中で最期を迎えた。友人リンジー・タイスンから借りたコルト三八口径自動拳銃の一発の銃声が周囲に反響すると、ハワードは自らの筆跡でその生涯に幕を引いた──「私には老人の死が、若者の死以上の悲劇に思えてならない」これは生前のハワードがよく語っていた言葉であるという。また、壮絶なハワードの生前の生き様は、2年間彼と恋人だったノーヴェリン・プライス・エリスとの恋愛ドラマを描いた映画『草の上の月(the whole wide world)』(1996)にも見ることができる。

*注釈1:実際の後年のハワードは、母親の看病に追われ続け、小説を執筆する時間が大幅に削られていた。しかし、ハワードの生前の執筆力は凄まじく、未完のものも含めておよそ400篇もの作品が残されている。
*注釈2:これにはハワード自ら打ち込んだのではなく、持ち歩いていたヴィオラ・ガーヴィンの"house of caesar"からの引用句が「財布の中に発見された」という事実が残っている。よって、「タイプライターにアーネスト・ダウソンの詞を打ち込んだ」という定説は間違いであることが発覚している。発見されたヴィオラ・ガーヴィンの詞は"すべては去りぬ。すべては終わりぬ。ゆえにわれを火葬の薪に載せよ。饗宴は終わりを告げ、灯は消ゆる"というもの。

{Oct 12, 2012}
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